SPECIAL COLUMN

夜空はいつでも最高密度の青色だ

信じたくて、信じられなくて、でも。
角田光代(小説家)

原作である『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は、詩集である。繊細で、ひりひりと尖っていて、傷つきやすく、それでいて傷つけにかかってきて、でもどこか、ものすごくやさしい。そんな印象の詩が静かに並んでいる。当然ながら、詩集には慎二も美香も出てこない。

だからこの映画のストーリー自体は、石井裕也監督の創作ということになる。不思議で、すごいことだと思う。この詩集を石井監督は、映画監督として、あるいはただの石井裕也として、いったいどのくらいくり返し読んだのだろう。どのくらい深く、入りこんだのだろう。映画と詩集はまったく違うものなのに、映画は完璧に詩集と同じ色合いをしている。

たとえば、登場人物のひとり、慎二は「だれかの暇つぶしのために、愛のために喧嘩のために、ぼくは生きているわけじゃない(「新宿東口)」とつねに考えているような青年に見えるし、美香は「愛しあえたら平和になれるという歌が流れる中で だれにも愛されない人がいたらその人は 死なないと辻褄が合わないのかな、と、教室の隅で息を吐いている女の子(「栞の詩)」そのままに見える。詩集から立ち上がる言葉が、そんなふうにそのまま、人物や町や空や夜になって、映画のなかに息づいている。

たいていの人は、「だれかの暇つぶしのために――」などと考えてはいないか、考えていることを隠す。「だれにも愛されない人がいたら――」などと思いつきもしないか、思いついたことを隠す。面倒な人だと思われるのがいやだから。慎二と美香という二人も、自分のそういう部分を隠そうとしている。でもにじみ出てしまう。自分でもそれをわかっている。わかっていて、もてあましている。

二人が暮らしているのは東京だ。この映画での東京という町の描き方も独特だ。「毎日を完結させなくちゃいけないという、それだけのために、今日も諦めと失望を、ゆめにむかってつぶやく義務がここにはあった(花園)」という詩人の言葉が、じつによく似合う町。ごたついていて煩雑で騒々しくて、不親切で無関心。自分とは関係のない人たちの人生で路地裏まで満ちているような場所。慎二も美香も、映画に登場する慎二の仕事仲間たちも、みんな東京を好きではない。でも、その好きではない東京に救われているようなところがある。美香が実家に帰るシーンがあるが、美香のややこしさは、田舎の夜の闇には溶けない。でも東京の騒々しさにはまぎれていく。東京を嫌いだと思うことで、東京はそう思う人に居場所をくれる町なのだと、映画を見ていてはじめて気づいた。無関心のあたたかみという相反するものを、両方そなえ持つ町として東京は描かれている。

慎二と美香が通りすぎる路上で、くりかえし登場するストリートミュージシャンが、そんな「東京」という場所を象徴しているようだ。この女性ミュージシャンの前で足を止める人はおらず、彼女の歌に耳を澄ませる人はいない。このミュージシャンはあんまり歌がうまくなくて、愛想もよくなくて、ただ歌っている。このミュージシャンが出てくるたびに、通りがかった酔っぱらいや、あるいは慎二や美香に、うるさいと絡まれるのではないかと私はヒヤヒヤしていたのだが、そんなことはなくて、彼女は真顔で歌い続けている。がんばれ、がんばれというへたくそな歌が耳に残る。聞く人の、そのときの状況によって、がんばれという言葉はニュアンスを変える。腹立たしく思えることもあれば、すがりたいような気持ちになることも、背中を押されるようなときもある。東京もきっとそんな場所なのだ。

慎二と美香は出会い、相手に「何か」を感じているが、それが恋や愛だとすぐに認めたりはしない。「何か」の正体を見極めようとする馬鹿正直な誠実さがある。そもそも二人は恋や愛を信じていない。信じたいのに信じることができない。二人のもとに、交際していた恋人や元同級生があらわれて、二人には到底信じられない恋や愛について語る。こういう偽物まがいの恋や愛があふれているから、そもそも二人は恋も愛も信じられなくなっている。でもその偽物まがいも、口にしている本人にとっては、正真正銘の本物なのだろう。何を本物と思うかが、その人をその人たらしめている。そういう意味において、慎二と美香は似ているし、愛や恋を信じていないとしても、必然的に距離を縮めざるを得ない。

この二人は「本物」がどこかにあると思いながらも、やっぱり信じられずにいる。というより、愛も恋も、おそらく彼らにとっての「本物」の一部だ。

なぜ信じられないかというと、二人の引き受けている喪失が、信じることを脅かすからだ。二人の抱える、喪失もしくは欠落の種類は違う。美香は過去の喪失にずっととらえられていて、慎二は長いあいだ自身の欠落と共存している。何かを信じようとするとき、慎二も美香も、信じたのちに失うことをおそれているように私には見える。本物があったとわかった瞬間に、それが跡形もなく消えるのがこわい。だれかと出会うことは、近しくなることは、喪失も欠落も埋めない。でも、共有することはできる。共有することで、それはもしかしたら半分になるかもしれない。喪失や欠落ばかりでなく、信じることへのおそれも、また。

美香の実家から東京に帰ってきた二人は、映画の終盤で、あるちいさな奇跡を目撃する。そのとき慎二と美香は子どものような表情で顔を見合わせる。私はこのとき、あっ、と思った。二人がやっと見つけた、と思ったのだ。信じられる本物を見つけた、と。それは具体的な何かではなく、永続するものでもない。明日には消えてしまうかもしれない。でも、今、たしかに二人とも同時に見つけた。そのことのほうがずっとだいじなことだ。二人の表情を見て私はそんなふうに思った。

この映画で描かれる恋愛は、うっとりするようなものでもどきどきするようなものでもなくて、もっとぎりぎりに切羽詰まったものだ。派手でもなくてきらびやかでもない。ささやかで、みっともなくて、明日には忘れるようなちっこい何か。けれどだから、ここに描かれる人の姿や、今日という日や、だれかとの関係や、思いを、私たちは自分のそれと重ねることができる。東京の空の下で起きている他人ごとではなくて、自分のこととして、胸にしまうことができる。

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奇跡のような2時間
高橋源一郎(小説家)

石井裕也監督の作品を何本観たんだろうと思って数えてみた。8本だった。それは、ぼくがパーソナリティーをやっているラジオに出演してもらったときに、まとめて4本観たせいもあるけれど、それでもいつからか、石井さんの映画は、ぼくにとって、観なければならないものになっていた。石井さんは、いろんなタイプの映画を撮る。活きのいい、ぶっとんだインディーズの作品も、堂々たるエンタテインメントも。でも、どの作品にも現れる、濃厚な感情の噴出が、ぼくは好きだ。

その石井さんが、最果タヒさんの詩集を映画化したと聞いた時には、びっくりした。最果さんは、最初の詩集『グッドモーニング』で中原中也賞を受賞しているのだけれど、ぼくは、そのときの選考委員だった。最果さんの出現は、詩の世界にとって、ほんとうに大きな意味を持っていた。このことは、どうしても書いておかなきゃならない。いつの間にか、詩人たちや、詩の熱狂的なファンだけしか読まないものになっていた現代詩を、最果さんは、もっとずっと広い場所に押し出そうとしていたからだ。ふつうの感受性を持った人間なら、誰だって読めて、心を動かされるような詩を最果さんは書こうとしていたのだ。

最果さんの詩を石井さんが監督して映画にする。ものすごく興奮するような企画だけれど、そんなことが可能なのだろうか。ぼくは、期待と不安が半ば交じった気持ちで、この映画を観た。そして、ほんとうに、ほんとうに衝撃を受けた。そこでは、不可能だと思われていたことが実現されていたのだ。

この映画は、看護師として働く美香と、日雇いの現場で働く慎二というふたりの若者の恋物語だ。けれども、ふたりは一直線に「恋愛」に向かうことはできない。ふたりの間を、たくさんのことばが邪魔している。それは、美香の口をついてでるおしゃべりと、慎二の口をついてでるおしゃべりだ。美香がしゃべるのは、この社会に広がっている、嘘くさいものへの、どうしようもない反発のことばだ。たとえば、誰もが、恋愛を口にしている。でも、それはほんとうに必要なものなのか。誰かが決めたことを、まるで自分が自発的な意志でやっているような気になっているだけではないのか。実は慎二も同じだ。黙っていると不安になる。自分が自分でなくなってしまうような気がする。だから、慎二もまた、どうでもいいようなことばを絶えず、口から発している。ふたりは惹かれあっているのに、ふたりの間には、膨大な残骸のようにことばの堆積物があって、ふたりの接近を阻んでいるのである。

美香がしゃべることばこそ、最果さんの詩からやって来たことばだ。ときには、直接、最果さんの詩から引用するように、美香はしゃべり、ときには、最果さんの詩の世界の登場人物がしゃべるように、美香の口からことばがこぼれる。

詩を読むとき、読者は、ふつう、ただ、そのことばを読む。そこに書かれている「意味」を読む。だが、かつて、詩が豊かなものと思われた頃、詩がたくさんの読者を惹きつけていた頃、読者は、そこに、「意味」ではなく、同じ時代を生きる人間の物語を読んだ。その詩の行間にある、詩人の行動や感受性に深い刺激を受けた。石井さんが、最果さんの詩から、一編の物語を引き出したのは、かつて、詩が豊かだった時代に行われたことだったのだ。

ふたりの若者は、巨大な都市、東京をさまよい歩く。それは、ぼくたちみんなが知っている光景だ。だが、ぼくたちが無機的だと信じている、おびただしい死に囲まれたこの都市は、深夜でさえ、赤・青・緑の光の三原色が散乱する、音と色彩にあふれた場所だった。ぼくたちは、彼らと共に、深夜から朝まで、都市を巡り歩きながら、いつしか覚醒してゆく。お互いを遠ざけるために、距離をとるために、傷つかないですむために使われていたことばが、いつしか、本来の目的のために、距離を埋めるために、向かい合うために、手を差し伸べるために、使われるようになってゆく。

ぼくは、この映画を観ながら、最良の詩を読むときだけに感じる深い感動を味わっていた。だが、それにもかかわらず、目の前にあるのは、詩ではなく映画なのだ。ことばそのものではなく、それをしゃべらざるを得ない人間を凝視する視線。映画だけが持っているこの直接性が、激しく、ぼくたちを撃つのである。

生きることを阻害していたことばは、最後に、ふたりを助けるように、そっと支える位置につく。ぼくたちは、この街でも生きてゆける。大丈夫だ。まだ、ことばもぼくたちも。この確信を画面から迸らせ、映画は終わっている。素晴らしい、奇跡のような2時間を残して。

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